しばらくブログ更新をしていませんでした。理由は色々あるのですが、一つは入院の間、まともにインターネットアクセスができなかったことです。
焼きいも屋さんの話はしばらくできないので(栄養の話はできるかもしれない)、その間、私の入院生活について綴っていきたいと思います。
まずは、これを読んでいる方が一番知りたいと思う「なんで入院したの?」という話です。ドキュメンタリー形式でお届けします。
六日午後三時
その日、私は栗畑の隅に小屋を建てていた。合間合間を見て、少しずつ建ててきた小屋も、屋根を張る段階まで来た。
「掘っ建て」で壁はなし。かつての自宅の裏山で捨てられていた杉の木や、使わなくなった建材の柱をとってあったものとか、そんなのを組み合わせて骨組みを作り、これまた何年か前に解体した「ひさし」の垂木やらを使っていた。足りない部分もあるので、ホームセンターで杉の木材を買ってきた。
そうして組んだ木の骨組みに、トタン波板を張る作業をしていたとき、事故は起きた。
もうすぐ午後三時、おやつを食べたら自宅に帰って洗濯物の取り込みと夕飯の支度をする時間だ。今日は割と順調に作業が進んだが、この次に畑に来られるのはおそらく来週。その間にトタン波板が風で飛ばされてはいけない。屋根に乗せた分はきっちりと釘を打っておかなければならない。
そう思って、高さ50cmくらいの脚立のような踏み台に乗り、手を伸ばしてハンマーで釘を叩いていたのだが、ふと魔がさした。
「手が届かないな……屋根に乗るか」
プロならそんなことは絶対にしない、なんせ強度が不十分だ。ただ、自分の体重(約60kg)なら、そっと乗れば大丈夫だろう。大した高さではない、降りるときは飛び降りても大丈夫。
そう思い、私は垂木に手をかけ、飛び上がろうと踏ん張った。
刹那
「バキッ」という音とともに、右手でつかんでいた垂木が折れた。解体したひさしの再利用品だ。木が腐っていたのだ
とっさに地面に目が入る、右足が着地する、あ、ひねった。
「あぁぁぁぁぁぁぁあ!」
私は激痛を感じ、その場に寝転がり、大声で叫んだ
「うぐっ、フーッ、フーッ」
痛みにこらえきれず、力いっぱい袖口を噛み、右手は近くに生えていた雑草をつかんでいた
数分?が経ち、ジンジンとした痛みに変わってきた。
三時の音楽が流れてきた。
「あぁ、こんな風に空を見上げたのは久しぶりだなあ」
そんなことをのんびりと考えていながら、しばらく寝転んでいた
だが、いつまでも寝てばっかりはいられない、それにちょっと寒くなってきた。小屋を建てた場所は日陰なのだ。
これは捻挫だろうか、骨折だろうか……? 私は今落ちたばかりの踏み台に手をかけ、立ち上がってみることにした
「!!」右足に激痛
これは折ったに違いない。
「あー参ったな」
これでは、多分自力で病院に行くのは無理だ……その時はまだこの程度の認識だったのだが、踏み台に腰を掛けて、私はポケットから携帯電話を取り出し、妻に電話をした。
実は数年前、私は自宅で作業中に左手の親指を電動のこぎりで切ってしまい、その時も初め妻に電話をかけたら留守電で、仕方なく救急車を呼んだのだが、自分で電話したからか「この程度なら呼ばなくても」という空気を救急隊員から出されたり、集落内ではちょっとした噂になったので救急車を呼ぶのをためらったのだ。ちなみにその時の怪我では6針縫っている。
今回は妻が出た。
「ごめん、骨折したかもしれない」
そう言ったら、「はい、すぐに行きます」といって電話が切れた。
その間に、やっぱり救急車を呼んだほうが良いかなと思いつつ、「でも畑の場所教えるの面倒だしな」という理由で妻が来るのを待った。いまにして思えば、携帯のGPSで場所は特定できたのだろう。
20分くらい待ったと思う。妻が来てくれた。
途中だった工具の片づけをお願いして、すでに張ってある屋根の下に、とりあえずまとめておいてもらった。
そして、妻が乗ってきた乗用車まで、歩いていくことにした。右肩を妻に預け、左手でレーキを杖代わりに持ち、片足歩きを始めた。
畑の出口まで来たとき、隣のサツマイモ畑に駐車中の軽トラに載せてあったカステラを、妻に取りに行ってもらった。三時のおやつのつもりだったカステラだ。そして、また二人で舗装されていないあぜ道を、乗用車が停めてあるところまで登っていった。
六日午後四時
やっと乗用車に乗り込めた。時刻は四時になっていた。妻に持ってきてもらったカステラを二人で食べた。のども乾いていたのだが、水はなかった。
さて、夕方になるといつもなら私は自宅で家事を始め、次男を保育所に迎えに行く。妻が保育所へ迎えに行くのは良いとしても、あまり遅くまでは預かってもらえない。そんな時間の計算を始めながら、町内の外科に向かう。この外科は指を六針縫った時にお世話になった病院だ。
ところが、この日は午後休診だった。インターホンを押しても誰も出ない。
妻と話して、まずは息子を保育園に迎えに行き、隣町の整形外科に一緒に行くことにした。
そうだ、明日は焼きいも屋の営業日で、予約も入っている、でもさすがに明日は無理だろうな……そう思った私は、予約を入れてくださったお客様に「すみません、けがをしてしまいまして、とりあえず明日はお休みをいただきます。また来週になったらできると思うので」と電話をした。
妻が次男を連れてきた。いつもと違う雰囲気に次男は不思議そうな顔をしていたが、私が後部座席に座っていたので隣になって少し嬉しそうだった……多分。
隣町の整形外科に着いた。レーキを杖にしながら歩いてきた私に受付の方が驚いた顔をして車椅子を用意してくれた。
小学生の娘と中学生の長男が帰る時間が迫っているということで、受付を済ませた後、妻は次男を連れて一旦帰宅した。そして私はレントゲンを撮ることになった。
レントゲン室に入り、台に乗る。長靴を脱ぐとき、撮影のために指定された角度に足を動かすとき、嫌な痛みが走る。看護師さんから「まだはっきり言えないけど、多分ここでは無理、手術が必要だと思います」と告げられる。ここで初めて「自分は大けがをしたらしい」と認識した。
レントゲン撮影が終わり、診察室に呼ばれる。K先生から「これは、もう手術をしないと。私のところでは対処ができないので、県病院に連絡して、いまから行ってもらいますね」と、目の前で電話をかけてくれた。
K先生が電話で話している間、看護師さんが私にメモを渡してきた「いまから絶飲、絶食です」
えー、水も飲めないのか……
今日は昼ごはんの時も水を飲んでいない。つまり、朝味噌汁を飲んで以来、水分をとっていないのだ。以前から私はあまり水を飲まないでいたので、最近意識して水を飲むようにしていたのだが、たまたま今日は飲んでいなかった。
「水もダメですか」「ダメです」
そんなやり取りをして、私は再び待合室に戻る。
六日午後五時三十分
受付の方が妻に電話をかける。が、出ない。
「時間が時間だからな」そんなことを思いながら、聞こえてくるやり取りに耳をそばだてていると、先程メモを渡してきた看護師さんが、「いまから私の車で県病院に行きます」と私に声をかけてきた。どうやら一刻を争うらしい。
とりあえず会計を済ませ、看護師さんの車で送ってもらうことになった。ここからは車で約40分くらいだろうか、着くまでの間、とりあえず私は「明日の焼きいも屋は臨時休業します」とFacebookに投稿した。
すぐにほめ達仲間のJさんがメッセージを送ってくれた「大丈夫?」どうやら、最近噴火した新燃岳の影響を心配してくださったらしい。私は現状を伝え、「また連絡します」と締めた。
ここまで書いてわかるように、私はかなりの大けがだったのだが、頭は打っていなかったので意識がはっきりしていた。車に乗りながら、私は主に二つのことを心配していた。一つは確定申告、もう一つは私が会計を務める水道組合の決算だ。
「確定申告の期限まであと9日しかないけど、間に合うかな」そんなことを思っていたのだが、足の痛みもあってか、知らず知らずため息が出ていたらしい。看護師さんが「心配ですよね。これからどうするか……」と声をかけてくれた。
私自身は、一週間くらいで退院できるつもりでいたので、この先の(中長期的な)仕事や生活と言ったことはまだ心配の種にはなっていなかったが、事情を知らない看護師さんには、そう見えたのだろう。ただ、私は努めて明るく応対をした。せっかく送ってもらっていながら、気分を悪くするのは良く無い。
午後六時三十分
夕方の帰宅ラッシュもあって、やや道も混んでいたが、6時半ごろ県病院の救急センターに到着した。最初は車椅子に乗って廊下で待った。その間先程のJさんとメッセンジャーで二言くらいやり取りをした。
そして、救急センターの処置室に入りベッドに寝かされることになった。
処置室には、私を含め三人くらい、ベッドに横になっていた。医師というと白衣というイメージがあるが、ここにいるのは救急隊員のような、色が濃くて動きやすそうな服装の人だった。白衣を着た看護師の方もいた。何人ものスタッフが出入りをしていた。
男性の看護師さんが、優しく声をかけてくれる「大丈夫ですか? 今から採血をしますね」
げっ、注射だ。
私は大の注射嫌いである。いつ頃からかは忘れたが、注射のたびに酷いしかめ面をしているので、毎回の健康診断ではいつも笑われたり、心配されたりしている。
「あの、注射が凄く苦手で」と話すと、看護師さんは「わかりました、じゃあちょっと細めの針で、そのあとそのまま点滴しますからね」といって、そのあとも「アルコールで拭きますね」「いまから射しますよ」「ちょっとチクッとしますよ」「痛くないですか」「もう大丈夫ですよ」と、沢山声をかけながら処置をしてくれた。右腕にはバーコードのついたIDブレスレットが装着された。これは退院まで、どんな場所に行こうとも外さない。
私が病院について約一時間後、妻が病院にきてくれた。とりあえず、Yさんに自宅に来てもらい、子供たちを見守ってもらっているとのことだった。本当にありがたい。そして、Nさんも病院に駆けつけてくれていると話してくれた。直接Nさんとは会えなかったが、感謝している。
怪我をした本人と病院関係者以外は長居できないらしく、妻はすぐに処置室を出ていった。
しばらくして、レントゲン撮影とCTスキャンがあった。レントゲン室にも、CT室にもベッドに乗ったまま移動である。撮影台に移るときは、4人くらいで抱えてくれる。
そしてまた処置室に戻る。そのまま横になっていると、若い眼鏡をかけた先生がはいってきた。主治医となるT先生だった。「最後に食事をしたのはいつか? 最後に水を飲んだのはいつか?」という質問があった後
「採血をしますね」
えー、またぁ? さっき採血したじゃないですかぁ。
そういうと、「それとは別に、もう一回します。今度は骨盤のあたりからとります」
淡々とした感じで「はい、いまからチクッとしますね」「はい終わりです」といいながら、淡々と採血をしてまた部屋を出ていった。ちなみに一回目の採血よりも痛かった。
私はまたしばらく、処置室の天井を眺めていたり、首を傾けて職員の方が働いている様子を見ていた。少し寒かったので、近くの人に声をかけて毛布を掛けてもらった。
そしてまた、T先生が入ってきた。「えー、いまから手術について説明します」といって、手術における様々なリスク、感染症について、麻酔について、輸血についてと、順に説明をし、紙を渡してきた。
昨今、医療において説明不十分なことが後々のトラブルになるケースが増えているのだろう、輸血に関しては宗教上の理由で拒否する人もいる。そんなことも含め、細かく書いてある紙の上には「同意書」と書いてあり、私はよくわからないながらも一つ一つ読み、サインをした。
六日午後九時三十分
そして、9時半ごろ、看護師さんが「手術室があくまで、一旦入院してもらいますね」と声をかけてきた。けが人、病人が次々運ばれてくる中、いつまでもこの処置室に長居はできないのだろう。それに、こんな時間まで手術室がいっぱいなのか、大変だな。まあ私は横になってるだけなのだが、手術がいつ始まるのかが少し心配になった。
病棟に移動する前、私は服を着替えることになった。ずっと畑の作業着のままだったのだが、妻が売店で買ってきた(正確にはレンタル)病衣に着替えるのだ。「点滴や心電計をつけたままでできるんかいな」と思ったが、さすがに慣れている。
ただ、ズボンの下にはいていたタイツは、足が腫れていてうまく脱げなそうだ。私は「タイツは切ってかまいません」と告げた。こうして、着替えが済み、携帯電話、iPhone、腕時計は妻が引き取った。
私は救急病棟に移動した。
救急病棟はすでに消灯時間を過ぎており、暗かったが今度は妻も一緒だ。病棟の看護師さんがやってきて「手術前にお小水が出るようだったら」といって尿瓶を用意してくれた。ただ、何回かトライしたものの、うまくできなかった。
しばらくして、白衣を着た男性が大きな機械をゴロゴロ持ってきて「これから手術がありますが、その前にレントゲンを撮りますね」と言った。持ってきたのはポータブルのレントゲン撮影機だったのだ。凄いなーと思いつつ、レントゲン撮影をしてもらい、終わると眼鏡も外し、いよいよ手術室に行くことになった。暗い廊下を私の乗ったベッドが移動する。妻は歩いてついてくる。
六日午後十一時四六分
手術室のある病棟入り口の自動ドアで妻とはお別れ。「行ってきます」「がんばって」みたいなやり取りをしたと思う。
病棟に入るとすぐ、手術室の受付がある。壁にかかっている時計を見たらもう日付が変わりそうな時刻だった。そこで私は氏名を名乗り、「右足の手術ですね」という質問に「はい」と答える。そして右腕のIDバーコードをチェックされ、手術室用のストレッチャーに移る。
手術室の病棟内はJ-POPが流れ、割と明るい雰囲気だ。少しでも患者の気を紛らすためなのか、医師・看護師の趣味なのかはわからない。この音楽は手術室の中でも流れている。
手術室の病棟内にも、いくつか手術室があるようだ。私はそのうちの一つに運ばれた。先程のT先生を始め、何人もの医師・看護師が待っていた。ある医師(?)が私の右足を持ち上げ、かかとをグイっと引っ張った。かかとを引っ張られたとき、痛さもあったが気持ちよさもあった、いわゆるイタキモ。
手術室内搬送用のストレッチャーから、手術台に移動する。ちなみに私はただ抱えられているだけである。
そして服を脱がされ(※手術台の上では全裸になる)、尿カテーテルが入る。そして麻酔の注射。
麻酔の注射は脊椎に打つ。カラダを横向きにして背中を丸めるのだが、滅茶苦茶怖い。緊張で身体を固くしていると「リラーックス!」とT先生が声をかけてくれる。しかし緊張はほぐれず(苦笑)
ただ、この麻酔注射自体は、思っていたほど痛くはなかった。そしてあおむけに戻って、おなかのあたりにカーテンがかかり、上半身には温かいバスタオルがかけられる。
数分後「足の感覚はどうですか?」と質問される。麻酔が効いてきたか確認しているのだ。アルコールをしみこませた脱脂綿で拭かれるが、少しヒヤッとする。「冷たいですか」「はい」「おかしいなあ」「これならどうですか」「いや、ちょっとヒヤッとします」「触られてる感覚は残りますよ」「いや、ヒヤッとします」……そんなやりとりを数回した後、冷たさを感じなくなった。そして口には酸素マスクが着けられ、私は眠りに落ちた。
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七日午前一時
目が覚めると、T先生が「終わりましたよ」と声をかけてくれた。
手術台に上るのと逆の手順で、服を着せてもらい、搬送用のストレッチャーに乗り、受付のところへ戻る。そして病棟用のベッドに乗り換えて、自動ドアを出ると妻が待っていた。
「ありがとう」と私は妻にお礼を言った。
病棟に戻ると、時刻は午前1時を過ぎていた、らしい。腕時計も外されたので正確な時間はわからない。上半身には点滴と心電計のプローブ、尿カテーテルもつけっぱなし。 ところで、もう半日以上水を飲んでいない。私の口の中はカラッカラだった。つばもうまく出ないくらいだ。水が欲しかったのだが、手術後しばらくは水を飲んではいけないらしい。
すこし会話をした後、妻は帰宅した。自分が言える立場ではないのだが、気を付けて帰ってほしいと思った。ひとりになった私は、眠れるかどうかはわからないが、仕方がないので目をつぶっていた。
だんだん麻酔が切れてきた。そして、腰が痛くなってきた。いつもなら無意識に寝返りしているのだろうが、あちこちに管やら電極やらがついているのでそれもままならない。何時ごろかはわからないが、看護師の方がやってきて「褥瘡予防のため」といって、体を左に傾けてマットを入れてきた。加えて「エコノミークラス症候群予防のため」左脚に空気圧でポンプするマッサージャーが巻かれた。これでさらに腰が痛くなったのだが、私には我慢しかできない……
七日午前八時
朝が来たらしい。病室のベッドは廊下側で、カーテンがかかっているので窓の外の様子がわからない。
朝食の時間だった。やっと水分が! 何よりも待ち望んでいたものだ。
すこしベッドを起こしてもらう。「病院でよく見るやつ!」とちょっと感動したのだが、正直食欲はそれほどない。ご飯を持ってきてくれた方が、私の様子を察してご飯を握ってくれた。塩味のしない白いおにぎり。私はそれを食べ、味噌汁は汁だけ飲み、牛乳を飲んだ。
食事のあと、食事を持ってきた方とは別の方が薬を持ってきた。錠剤四つ(三種類で一種類は二錠飲む)と粉薬。粉薬は漢方薬だった。
薬を飲み終わった後は、また別の看護師の方が、おしぼりで全身を拭いてくれる。股間もお湯で洗ってくれる。ベッドを濡らさず上手にやるんだなと思いつつ、さっぱりしてとても気持ち良かった。
病室には時計がない。腕時計も外して妻が持ち帰ったためない。時間の間隔がわからない中、うとうとしたり、目を覚ましてぼーっと天井を眺めていたりしていたら、お昼ご飯になったらしい。今度は完食した。
昼食後、再びCT室で撮影。病棟の看護師さんがちょっとドジっ子な感じがして(※優秀な方です)ちょっとかわいいなと思った。しかしこの看護師さんとはお別れ。私は救急センターから整形外科に移動することなったのだ。
七日午後二時
整形外科は男性の看護師Tさんが担当だった。体格が良く、声も大きい。おむつのことなど色々言われるのだが、正直私はさっぱりわからないし、わかったとところで、ベッドを離れられないのだからどうしようもない……と、文句を言っても始まらないのでしっかりと話を聴いていた。
この日は病院の職員の方が入れ替わり立ち代わりやってくる。手術室の看護師さん、薬剤師さん、管理栄養士さん、事務員さん、医療連携科の方、病棟の看護師さん、主治医のT先生。ウトウトしてるとやってくるのでなかなか落ち着かない。
妻が見舞いに来てくれた。先程の看護師Tさんから聞いた話や、自宅や仕事関係の事務的な話などを口頭で伝える。よくここまでソラで言えるものだと我ながら感心する。妻は「こんな時だから」といって、ノートとペン、そして本を何冊か持ってきてくれた。
そして、私の入院期間について、妻は「どんなコースをたどっても二か月以上」とT先生から聞いたと教えてくれた。自分の中では一週間程度の入院と思っていたのだが、思っていたよりも大変なことになっているのだと、ようやく認識できたのだった。なお、「どんなコースをたどっても」という意味はまた別の機会に。
そして、長いくて短い二日間が過ぎていった
ま、こんな感じで、自分が思っていたよりも、自分の怪我は大変だったと自覚するまで、事故発生から丸一日かかりました。
これは不幸中の幸いですが、意識はとてもはっきりしていましたし、足首以外はほぼ無傷でした。それがゆえに、私はかなり楽観的になっていたのでしょう。
そして、二か月半にわたる入院生活が始まったのでした。